「 『暴走』盧大統領のライバル『ソウル市長』に聞く 」
『週刊新潮』'05年3月31日号
日本ルネッサンス 第159回
続「韓国」最新レポート (中編)
多くの人がソウル市長の李明博(イミョンバク)氏(63)を「コリアンドリームを体現した男」と呼ぶ。また、少なからぬ人々が氏を「次期大統領の有力候補」とも呼ぶ。
盧武鉉(ノムヒョン)政権の打ち出す親北朝鮮左翼的政策と、同政権に翻弄され続けている感のある野党ハンナラ党の勢力関係は容易に定まらない。そのなかに占める李市長の位置もまた、定かではない。しかし、確かなことは、李明博氏がソウルで実現しようとしていることは、韓国の未来展望を切り拓くのみならず、21世紀の人類社会が目指すべき共通の価値観と合致することだ。
丁度今月25日、愛知県長久手町、瀬戸市、豊田市にまたがる会場で「愛・地球博」が開幕する。テーマは「自然の叡智」である。会場となった一帯は、100年前ははげ山だった。瀬戸焼の窯業用の薪として樹木が伐採され、丸裸になった山々がようやく復元されて森になった。愛知万博の計画当初は、折角復元されたこの森を伐採して新しい会場を整備する案が示されたが、周知のように強い反対によって森の伐採・造成面積は当初計画の15パーセントに縮小された。そのうえで、愛知万博では持続可能な発展を体現する新しい技術と試みを、身近な技術として示している。
愛知万博で強調されている自然の叡智を先取りし、大胆なソウル市の改造に乗り出したのが李市長である。
それはソウル市内を西から東に横切り、やがて漢江(ハンガン)と合流する清渓川の大復元工事である。清渓川(チョンゲチョン)はかつて美しい川だったのが、朝鮮戦争やその後の混乱と財源不足のなかで放置され、汚染が進んでいったという。1958年から20年の歳月をかけて、この川には6キロにわたってコンクリートの蓋が施され、その上を車が走った。その道路の上にさらに高架道路が建設され、下には上下水道、電気、ガス、通信用の施設などが作られた。蓋の上の道路と高架道路には、一日平均16万8600万台弱の車が通り、周辺には6万店が並び、20万人を超える人々がそこで暮しをたてていた。李明博市長は、高架道路の陰のなかに立ち並ぶ雑然とした店々に立ち退いてもらい、20万人を納得させて、この高架道路を取り除いたのだ。そして、コンクリートの蓋をはずし、美しい水の流れをソウルの中心部に復元しようとしているのだ。
誰もが、そのような大改造が出来れば素晴しいと思いながら、余りにも複雑な利害関係と工事のスケールの大きさの前に諦めていた。川の蓋も高架道路も、すでにそこにあるから、それらに合わせて生活しなければならないと人々は諦めていた。誰もが、利害関係者が20万人もいるとき、その全員の賛同を得ることなど不可能だと考えたのだ。現に、盧武鉉大統領は今年2月、たった一人の尼僧の断食で、92年から続いてきたソウルと釜山(プサン)を結ぶ京釜高速鉄道の建設を中断した。工事はソウルから大邱(テグ)まで進んでいたが、残余の工事については盧大統領の意向もあり、見通しが立っていない。一説にその損失は2兆5,000億ウォン(2,500億円)に上るとも言われている。
反対者が一人でもいれば公共工事は前進させないという考えは、美濃部亮吉氏が東京都知事だった60年代から70年代にかけての12年間の東京都政を想起させる。深い吐息なしには回想出来ない“革新都政”そのものの政治状況が今だに存在する韓国だからこそ、20万人を説得して立ち退かせようと考えること自体、無謀だと見られたのだ。
従来の価値観を転換
だが、その“無謀”な計画を、李氏は長い間心にあたためてきたと言う。 「清渓川の復元は単なる環境の復元の次元を超える問題です。経済を成長させる、より便利にするという従来の価値観を超えて、国民の生活を真に豊かに、誇らしいものにする試みです」
清渓川復元工事に関する小冊子には、川の復元の理由として、ソウルを人間中心の環境都市に変貌させることに加えて、ソウル600年の歴史の回復が謳われている。コンクリートの蓋の下に埋もれてしまった朝鮮時代の多くの美しい橋を再現し、民族の誇りを取り戻す事業として位置づけられている。高架道路の取り壊しは、また、川底に沈澱して厚い層を形成していた鉛、クロム、マンガンなどの重金属に汚染された泥の取り除きも可能にした。
李市長が面白いことがあったと言って、次のように語った。
「ベニス・ビエンナーレの建築大賞は世界的に権威のある賞だと思いますが、去年、私は、清渓川の復元に関してこの賞を貰ったのです。けれども、工事は今年終るのに、去年の受賞でした。なぜかと問うと、工事そのものの発想と、大勢の利害関係者の説得が重要で残りは土木工事にすぎないから、最重要の部分は完了したとして賞を決定したそうです」
大多数のソウル市民たちが李市長を高く評価するのもまさにこの点である。
日本にたとえて言えば、お江戸日本橋の上に巨大なコンクリートの塊りを乗せて高速道路とし、江戸城のお堀をどぶ川同然にしてしまった高度経済成長時代の構造物を取り壊したのだ。その具体策、その後の町づくり、コスト計算、工事期間の設定のすべてを仕切ったのが李市長だった。当初はガスボンベを抱いて自殺すると脅した市民もいた。鉢巻頭での抗議も続いた。しかし、李氏はそれらの反対者の全員を、納得させた。一件の強制執行もなく工事は始まった。ソウル市民は、その李氏の力量に舌を巻く。
「大変な忍耐と誠意が必要でした。しかし、今は、かつて反対した人々が、この事業を積極的に支援してくれるようになりました。そのかわり、市長として、言ったことの全てを守ってきました。また、工事期間も2年4ヵ月の短期間です。これもきっちり守ります」
李明博氏はいわば叩き上げの人だ。1941年に生まれ、生家が貧しかったために、小学校時代から苦労した。夜間の商業高校を卒業した後、ソウルで働きながら高麗大学商科大学の経営学科に入学。2年生のときに陸軍に志願したが病弱で除隊となる。その後建設工事などで学資を稼ぎ大学を卒業した。
日韓関係でいえば、1964年、大学3年生のときに日韓国交正常化反対の6・3デモを主導して逮捕されている。商科大学学生会長だった彼は3年6ヵ月の懲役、執行猶予5年の刑を宣告されたが、結局6ヵ月間服役した。
首都移転をめぐる攻防
65年の大学卒業後すぐに、当初はまだ小規模だった現代建設に入社した。彼はタイや中東諸国の現場で猛烈に働き、その働きぶりが認められて、入社5年で理事に、入社12年目、35歳の若さで、なんと、社長に就任するのだ。70年代半ばの現代建設はすでに世界的に、名の通った大企業だったが、韓国財界人は、李氏こそが現代建設を支えてきたと賞賛する。現代建設の若き社長となった李氏はまさにコリアンドリームの体現者であり、彼の人生はサラリーマンの神話として知られるようになった。
李氏の政界進出は92年、現在のハンナラ党の前身の民自党から、全国区の候補者としてである。氏は96年にハンナラ党から鐘路区で再選された。だが、法定選挙費用を超えた活動費があったとして、98年に氏の当選は無効とされた。このとき人々は、李明博氏の政治生命は終わったと考えた。
だが、以来4年間、ハンナラ党の仕事を着実にこなし、2002年7月、ソウル市長として復帰を遂げた。そして今や、氏の実績には、誰もが評価せざるを得ない輝かしいものがある。
李氏は、ソウル市の問題を超えて、国家建設についてどう考えているのか。
現在、盧武鉉大統領が強引に推進しようとしている計画に、現在のソウルから忠清南道(チュンチョンナムド)への部分的な首都移転がある。盧大統領は当初、首都全体の移転を計画していた。だが、この件に関しては、昨年10月、憲法裁判所が、「首都移転法案は違憲」との判決を示した。
すると大統領は今度は、部分的移転を提案したのだ。その意図については幾通りかの説が語られている。
韓国の政治に詳しいベテラン記者は次のように語る。
「ソウルから南に120キロも離れた忠清南道に、首都機能の一部を持っていこうというのは、そこの票が欲しいからです。過去2回、左翼勢力は、保守政権や保守の政治家に選挙区間の合体や組合わせで勝利してきましたから、盧大統領が2007年の大統領選挙に向けて、保守層の追い落としの構図を作ろうとしていると考えざるを得ません」
過去2回の組合わせとは、97年の大統領選挙で金大中(キムデジュン)氏と金鐘泌(キムジョンピル)氏、全羅道(チョルラド)と忠清道(チュンチョンド)の提携が、その第1のケースだ。
第2は2002年の大統領選挙だった。金大中氏の後任の盧武鉉氏は全羅道の票を固め、忠清道の票を得るために首都を忠清道に移転すると公約した。金鐘泌氏も、どちらかというと盧武鉉氏寄りの立場をとった。結果として金鐘泌氏は二代続けて左派政権の誕生に手を貸すことになった。
保守派が強いと言われる慶尚道(キョンサンド)の票は全体の約33パーセント、金大中氏の地元である全羅道は25パーセント、忠清道は16パーセントである。左派勢力は慶尚道の33パーセントを取り込むことは容易ではないが、首都移転の件で忠清道を取り込めば、25+16で41パーセントとなり、慶尚道の33パーセントを上回る。
盧大統領は2007年の選挙に向けて、同じ方程式で臨もうとしているというのである。
もうひとつの見方は、ソウルを否定することはこれまでの韓国現代史を否定することであり、盧大統領が金正日に代わって韓国の戦後の成功の歴史を否定しているというものだ。親北朝鮮政策の一部がこの移転問題にも表れているという分析でもある。
このような見方がなされている首都移転について李市長は語る。
「均衡ある国土の発展を目指すという大統領の考え方には同感だが、その方法については、私の考えは政府のそれとは大きく異なります。盧大統領は国の機関が全国に散らばることが、均衡のとれた発展につながるとしています。しかし、行政府の半分以上を地方へ移せば、行政首都が二つになります。国政といえども、効率が必要です。国の機関の分散は効率を落とし、韓国の競争力を殺いでいくと思います」
盧大統領の政策への挑戦
李市長はまた、南北朝鮮の統一を視野に入れた政策を考えねばならず、首都のあり方はそのなかで重要な柱のひとつだとも語った。
「盧大統領は忠清南道に作る新しい行政都市を2030年までに人口50万人の都市にすると言います。しかし私は、南北の統一はその前に来ると確信します。だとすれば、統一を前にして首都を南に移すのは新たな複雑さを南北統一に加えるものであり、効率上も賛成出来ません。いずれにしても首都移転が国民の合意を得ているわけではありませんから、当分、論争が続くと思います」
南北統一について、李市長は具体的に語った数少ない一人だった。現在の南北の経済格差は統一には余りに大きすぎるが、韓国民の一人当たりの国民所得が現在の約2倍の3万ドルになり、北のそれが3,000ドルから5,000ドルになれば、統一は可能だと言う。それには約10年が必要であり、その間に出来るだけ多くの文化的、人的交流を重ねて互いに準備をすることが重要だと次のように語った。
「現状では北韓は他者の援助なしには生きられません。国を開放して、自ら生きていける力をつける、そのような道を選ぶべきです」
慎重な表現ながら、李市長の発言は盧大統領の政策への挑戦である。李市長は忠清道への首都移転についても、現在あるものを分配する政策よりも未来の発展のために新しいものを創造する方がよいと言う。
「忠清道が実質的に発展していくためには、行政機関を移すよりも、そこに新たな企業都市や科学都市を築いていくような工夫と創造力が必要です。より良い代案を提示する時期もあると、私は考えています」
実質的な大統領選挙への出馬宣言とも受けとれる発言だ。熱い期待が集まる人物の言葉に、思わず、私は尋ねた。
「次のソウル市長選挙には出馬するのですか」
「私は来年の市長選挙には出馬しないと、以前から明言しています」
では、国政に戻ると考えて良いのだろうか。市長はにこやかに答えた。
「ソウル市の公務員は、私がいなくなっても、すでに十分に責務を果たすことが出来ます。彼らの働きが国家がよい方向に変化するのに役立つはずです。
私が国政に戻るか否か、国家のために仕事が出来るか否かは、私の意思ではなく、国民の選択によります。それにしても、私の身の振り方について話すのは、時期が早すぎます」
合理的な思考。実績に基いた氏の主張。いずれにも不安定さがない。左翼的かつ、市民運動的な政治状況に揺れる韓国の歩みを地についたものに引き戻す力があるとすれば、そのひとつは、明白に李氏のこの着実かつ合理的思考であろう。